……い…痛い……! 左膝が…超痛ェ…………!!
少し前から違和感があった左膝に激痛が襲ってきた。
「ラ、ラムさん、膝が凄く痛いです!」
この時の自分は苦痛に歪めた顔をしていたのだろう。 いつもだったら「タブンーダイジョブ」と言うラムさんだがこの時は違った。 「痛イ?歩ケル?」
「……まぁなんとか歩くことはできると思います」
「ソレナラータブンーダイジョブ」
だが、大丈夫だろうが大丈夫じゃなかろうが、今は歩いてロッジに戻るしか選択肢はない。
しかし何故、急に左膝が痛み始めたんだ?
幼少期に近所の公園で虫取り網を持ってトンボを追いかけて駆け回っていた時、勢い余って転んでしまい強打してしまった名誉の負傷が再発してしまったとでもいうのだろうか。 なんにせよ、トレッキング中に膝が痛むというのは深刻な問題である。
ヒィヒィ言いながら、なんとかキャンジン・ゴンパのロッジに戻った。 部屋のドアを開けると、ベッドに大輔さんが横たわっていた。
「……………………」
「……大輔さん?」
「……………………」
「おーい……」
「……………………」
返事がない。ただの屍のようだ。
「そ、そんな……大輔さぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「うるさいな!!」
「あ、生きてた」
「凄く頭痛いし気持ち悪い。しばらく寝る……」
「あいあいさー。俺はお茶でも飲んできます」
お茶を飲みに部屋を出る。
「大悟サン、ダイスケサンノ調子ハドウデスカ?」 ラムさんが心配そうに尋ねてきた。
「大輔さん、気持ち悪いって言って寝ています」
「ソレナラータブンーダイジョブ」
大丈夫なのかよ!
「大輔さん、薬です。どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
「高山病ってキツいんですね」
「今は女性に「抱いてください」と懇願されてもそんな気にはなれない……」
エロ男爵の大輔さんがそこまで言うとは……。高山病は深刻なようだ。
「相当しんどいんですね……、御大事に」
トレッキング5日目。
昨日とは打って変わって、大輔さんは完全に回復したようだ。
「いやー、めちゃ調子がいいよ」
ラムさんが言ったとおり、本当に大丈夫なようだ。
「コノママユックリ村二滞在シナガラ帰ッテモイイデス、ゴサインクンドニ行クノモイイデス」
ゴサインクンドとは標高4380mの山中にある真っ青な美しい湖のことである。 あと5日もあることだし、是非とも行ってみたいものだ。
「膝大丈夫?痛いならやめた方がいいんじゃない?」
大輔さんが訊いてきた。 確かに、昨日痛めた膝は全く完治していない。
「なんとか行けると思いますけど……、とりあえず下りながら様子を見ましょう」
どちらにせよ、ゴサインクンドに行くにはラマホテルまでは戻らなければならない。
というわけで、もと来た道を下っていく。
平坦な道はスイスイ歩けるが、上りと下りの道が辛い。左膝が悲鳴を上げている。
昼前には、ランタン村に到着。
「ひ…膝が痛い……」
苦痛に顔を歪めていた自分を心配してだろうか。ラムさんがこう言ってきた。
「大悟サン、ランタンニ今日泊マッテモイイデス」
「え、でも日数的に今日はラマホテルに行っておかないとゴサインクンドには行けないですよね」
「ソウデスネ」
「……行きましょう、ゴサインクンド」
歩く毎に痛みが増している気がする。
ゼェーゼェーッ……、足を痛めただけで山道はここまで辛くなるものなのか……。
「なんか空気が濃くなってきているのか、来る時よりもかなり楽だなー」
満身創痍の自分に対し、大輔さんは絶好調だ。
部屋に入り、ベッドに倒れ込む。
「うぅ……、しんどい」
「膝辛そうだね」
「見ての通り、辛いですよ」
「日々の運動不足が祟ったんじゃないの?」
「そうですかねー。うーむ、それか山の神に祟られたか……」
「はぁ?」
「ラムさんが山頂近くで立ち小便したから山の神がお怒りになったんじゃー」
「だとすれば、とんだとばっちりだな」
大輔さんと会話しているとラムさんが部屋にやってきた。
「大悟サン、大輔サン、ディナータイムデス」
「はーい、すぐ行きます」
「ワタシー、今ー、忙シイ」
「え、仕事してるんですか?」
「オ酒ー、飲ンデル」
あ、確かにラムさん少し酒臭い。 ってか、酒飲むのに忙しいってなんなんだ……。
よく分からないラムさんのネパールジョークである。
夕食時、ポツポツと屋根に落ちてくる雨音が聞こえてきた。
「あ、雨だ」
外に干してある洗濯物を部屋に入れなければ。
洗濯物を取り込んでいる時に、雨風が一段と強まってきた。
「いかんいかん、体が濡れてしまう」
急いでロッジに戻り、洗濯物を部屋に放り投げる。
「土砂降りですね」
「だね、ここまで降るのはネパール来てから初めてだ」
雨天の山の夜は冷えこむ。
こんな日はキッチンの大きな土釜が大活躍だ。 ラムさんから貰ったロクシー(ネパールの焼酎)を飲みながら、まったりしているとラムさんが唐突にこう言ってきた。
「日本人ココ来マス」
「今からですか?」
「ハイ、宿ノ人ニ電話アリマシタ」
「綺麗な優しいお姉さんだったらいいですね」
「ないない絶対ない」
「分かりませんよ。流行りの山ガールかもしれないです」
「いくら山ガールでもネパールのランタントレッキングはしないだろ」
しかし、土砂降りな夜道を歩いてきてるのか。大変だな……。
その後ろには日本人と思しき老夫がいた。 1人のネパール人男性は流暢な日本語で、暖炉がある隣の部屋に老夫を案内する。
日本語上手だなー、ガイドさんかな。
日本人の老夫は、自分達が日本人とは気がつかなかったようだ。
「……綺麗な優しいお姉さんじゃなかったか、残念だ」
「君は何を期待していたんだ」
隣の部屋に移動すると、日本人の老夫はくたびれた様子で椅子に腰掛けていた。
「お疲れ様です。雨大変でしたね」
大輔さんが老夫に声をかける。
「おぉ、君ら日本人か…、ネパールの人かと思ってたよ」 弱々しい声で老夫は言った。
「何処から来られたんですか?」
「シャブルベシから。時間がかかって参ったよ。腹の具合が悪くてな……」
話を聞くと、ネパールの食事が合わなかったらしくトレッキングを始めた途端に体調が優れないとのことだ。
日本では頻繁にトレッキングをしており、ネパールのトレッキングも容易いものだと踏んでいたところ、甘くみてたらしい。 ここまで辛いトレッキングは初めてだそうだ。
そりゃそーだ。下痢ピー状態なんだから。 おじいさん……、あなたのその苦しみはよく分かるぜ……!
老夫の話を聞いている途中、ラムさんが切ったリンゴを皿に乗せて、持ってきてくれた。 「リンゴ、ドーゾ」
「ありがとうございます、ラムさん」
俺と大輔さんはシャクシャクとリンゴを口に運ぶ。
「おじいさんもどうぞ」
そう言って、老夫にリンゴを差し出す。
「リンゴか……、リンゴなら大丈夫か……。ちゃんとミネラルウォーターで洗ってるかな……」
か細い声でそう言いながら、老夫はリンゴを取る。 おじいさん、よほどネパールの食べ物に恐怖心を感じているようだ。 外はまだ強い雨が降り続いている。
トレッキング6日目。 起床後、外に出て空を見上げる。
「さっき、なかなかトイレが空かなかったんだよ」 荷物をパッキングしながら大輔さんが言う。
「もう一体誰がこんな長い時間かけてんだよと思ってたら、昨日のおじいさんだった」
「まだ調子悪いんですね」
「凄く険しい表情だったよ」
「あの調子じゃ登るのは止めたほうがいいと思いますけど……」
下痢が続く状態は自分が思っている以上に、体力を消耗してしまう。ましてや、年老いた人なら尚更であろう。 天高くそびえる山々を目指して登る毎に、本当の天国に近づいてしまうことになりかねん。
「シャブルベシから10時間以上かかったって言ってたからね。今日もランタン行くまでが大変そうだ。まぁ登るかどうか判断するのは、おじいさん本人だけどね」
「大悟サン、ゴサインクンド行キマスカ?」 朝食の時に、ラムさんが尋ねてきた。
自分の膝を気遣ってくれているのだろう。
俺は痛めている膝に目を遣った。
「行きます!行けます!行きましょう!」
膝の調子は相変わらず芳しくないが、ネパールでトレッキングする機会など、もうやってこないであろう。行ける時には行っておきたい。
「別に無理することはないんじゃない?今無理して悪化させたら今後の旅に響くよ」 大輔さんが言う。
「俺は別にゴサインクンド行けなくても構わないし」
「大輔さん、心遣いは嬉しいのですが、男にはやらなきゃならん時があるんですよ」
「意味分かんねぇよ」
「とにかーく!時間があるうちに先へ進みましょう!歩きましょう!時間が経てば治るかもしれないですし」
「怪我は安静にしてなきゃ治らないぞ」
話し合った結果、現在地のラマホテルからトゥローシャブル村まで行き、まだ膝の調子が良くなっていなければゴサインクンドに行くのは中止し、カトマンズまでのバスが出ているドゥンチェの町に向かって進むことにした。
ラマホテルを出発し、トゥローシャブルへ向かって歩き出す。
自分は平坦な道すらも足を引きずるように歩いていた。
途中の昼休憩時間も含めて、出発して約6時間後、トゥローシャブルのはずれにある農家の庭先に到着した。
普段の状態なら周りを見渡しながら歩いていくのだが、今の自分にはそんな余裕は持ち合わせていなかった。目の前にある道しか見えていない。
「ラムさん、宿はまだですか?」
「モウ少シデス、頑張ッテ下サイ」
大輔さんは軽快な足取りでヒョイヒョイ登っている。
20分後、トゥローシャブル村に到着。標高2210m。 山原にある村なので上り下りの道が多い。
フラフラしながらロッジにチェックイン。すぐにベッドに倒れ込む。
あ〜しんどかった……。
うつ伏せの状態のまま、しばらく休憩。
大輔さんはカメラの液晶画面で写真のチェックをしている。
「大悟君、死体みたいにぐったりしているね」
「あぁぁぁ……今日の山道は猛烈に辛かったです」 顔だけ動かして喋る自分。
「あーそういやさー」 口元のニヤつかせる大輔さん。
「どうしたんですか?」
「いやね、ラムさんがこう言ってたんだよ。『大悟サンータブンーゴサインクンド、行ケナイ』」
ラムさんの声色に真似ながら大輔さんが言った。
「ラムさんそんなこと言ってたんですか?ってか声真似うまっ!」
ラムさん演じる大輔さんの声真似は何気にクオリティーが高かった。渋いラムさんの声質を上手く表現している。
「昼食後に大悟君すげー足引きずりながらトイレ行ってたじゃん。それ見てラムさん言ってた。『大悟サンー、タブンー、ゴサインクンド行ケナイ』」
「マジですかー、ってかやっぱ声真似うまっ!他の出来ますか?」 「ワタシーイマー忙シイ。オ酒ー飲ンデル」
「おぉー、ラムさん、俺はゴサインクンド行けると思いますか?」
「タブンー行ケナイ」
「おぉー、そんなこと言われたら意地でも行きたくなっちゃいますね」
「無理ハーヨクナイ」
しばらく部屋で休んだ後、トゥローシャブルの村を散策してみた。 村には電線が敷かれ、wi-fiが使えると表記しているロッジもちらほらある。
うーむ、標高2000mを超えた場所にも近代文明の波が押し寄せているのか。
膝をかばいながら、ひょこひょこ歩いていると、村の少年達が声をかけてきた。
「ハロー、何処から来たの?」
「日本だよ」
「えっ日本人かー!クローズZEROⅡ観た!?最高だよあの映画!」
1人の少年がそう言うと、他の少年達も声を揃えて言う。
「クローズZEROⅡ、あれはいい映画だ!」 「クローズZEROⅡ、最高にカッコイイぜ!」 「クローズZEROⅡ、もうアドレナリンがドバーって出るぜ!」
どういう経路でクローズZEROⅡのDVDを入手したのか分からないが、この村の少年達の間ではクローズZEROⅡが流行っているようだ。 俺はクローズZEROⅡ観たことないけど、それは言わないでおこう。
「おーい」 商店で購入したお菓子を食べながら、大輔さんが歩いてきた。
「なんかめっちゃクローズZEROⅡ最高って言われるんだけど」
「あ、俺も言われました。TUTAYAで誰かがレンタルしてきたんですよ多分」
「いや、TUTAYAではなくゲオかもしれないな」
遊んだ子供のグループの年長の女の子は非常に英語が堪能な子だ。 この子に名前を尋ねられたのでこう答えておいた。
「俺達の名前は『大悟・大輔』。日本が誇るゴールデンコンビだ」
「ダイゴ・ダイスケ。覚えやすい名前ね」
どうやら子供たちはコンビで覚えてくれたようだ。 大輔さんは「コンビ組んだ覚えはないぞ」と不本意だったようだが。
夕食時、ラムさんが尋ねてきた。
「大悟サン、ゴサインクンド行きますか?」
うーむ、どうするか。ここからゴサインクンドまでの道はかなりハードである。正直言って、今の膝の状態では登ることはかなり厳しいだろう。
「うーん、どうしましょうか……。相変わらず、膝の調子は良くないんですよね」
「俺はこの村でのんびりしてもいいよ」
「うーん……、どうしようかな」
「やめるのも勇気だと思うよ」 真剣な顔付きで大輔さんが言う。
……そうだな。ゴサインクンドに向かっている途中で動けなくなったら2人にも迷惑をかけてしまう。残念だけど諦めよう。
「ゴサインクンドに行くのは諦めます。俺の都合に合わせてもらって、すみません」
そういうわけで、ゴサインクンド行きは断念。
次の日、ラムさんと大輔さんは村の近くの山までトレッキングに出かけた。 俺はというと、村の人の民家に招かれテレビがあったので一緒にサッカー観戦していた。
午後には大輔さんが戻ってきたので、2人とも部屋でくつろぐ。
「ハエ多いですねー」
「ちょっとうるさいなー。何処から入ってきたんだ?昨日はいなかったのに」
部屋を飛んでいるハエを観察すると、やや大きめのサイズなのに気づいた。
「なんかこっちのハエ、日本のハエと比べると一段とデカくないですか?」
「あ、確かに大きいな」
ブーン、ブーン。
ハエ達は音を立て、ずっと飛び回っている。
「……耳障りだ。捕まえよう」
大輔さんがそう言い、空のペットボトルを手に取り、キャップの蓋を開ける。
「無理でしょー。ハエですよ、ハエ」
大輔さんは、窓にとまっているハエに狙いを定めて、飲み口部分をそっと窓に押し当てる。
ハエは、いとも簡単に捕まった。
「あ、捕まえられた」
「マジですか」
「ここのハエ、めっちゃ動き鈍い」
大輔さんは、どんどんハエをペットボトルの中に生け捕りにしていく。
あっという間にペットボトルの中にハエが5匹。
「すげー、俺もやってみよう」
同じ要領でハエを捕獲。 いとも容易く生け捕りに出来た。
「ここのハエって警戒心全く無いですねー」
「日本のハエって凄いんだな」
「というか異国の地でハエ捕りって俺達は何をしているんでしょうか?」
「たまにはいいんじゃない。こういうのも」
そう言っている間に部屋にいるハエを全て捕獲することに成功した。 窓際に置いてある、3本の空のペットボトルの中にはたくさんのハエが飛び回っている。
掃除に来た宿の人が驚くだろうな。
この日から、日本人はハエを捕まえるのが生き甲斐だと、トゥローシャブルでは間違った情報が広まっているかどうかは定かではない。
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超インドア派。妄想族である。立ち相撲が結構強い。
好きなTV番組は「SASUKE」。